ありのままの田舎暮らし
第3話 食うために移住するという発想
■田舎移住の決断の難しさ
田舎暮らしを計画している方にとって、特に家族での移住となると、第一番目のハードルとなるのが意思統一ではないでしょうか?
もちろん、夫婦や子供たちが全員一致で賛成しているのなら問題はありません。しかし、旦那さんが推進派、奥さまが反対派となると、無理矢理移住するわけにもいきません。
全員がハッピーでなければ、余程の理由がない限り、無理な移住は成功し得ないと思います。とりわけ、世帯の柱である夫婦の意見が一致していないと、どちらかがアンハッピーな暮らしを強要されることになってしまうからです。
僕の場合は、バブル崩壊の余波で会社を解散し、一戸建ても手放し、借財を精算して茨城県内の公団住宅にいったん引っ越しました。
実はそのとき、売るに売れずに手元に残った「西郷村の山小屋」への移住を考えたのですが、ボクの妻は大反対。
セカンドハウスとして田舎を満喫していたときは「いいところね」と満足してくれていたのに、いざ移住となると「友達もいない、仕事もない、街も遠い、そんなところに住むのは嫌だ」というのです。
子供の教育についても妻には妻の意見があり、田舎で伸び伸び育てたい僕と、それなりの水準の学校に通わせたい妻とでは、やはり意見が食い違うのです。実を言いますと、この溝は現在も埋まっていません。
■単身移住?
さて僕は、会社を解散したものの、倒産だけはなんとか免れ社名だけは残りました。社長といっても僕ひとりしかいませんのでフリーランスと同様の状態です。家族を養わなければならないのは変わりませんので、仕事を取ってこなければなりません。
そんなとき、日本最大級の豆腐製造メーカーからパッケージデザインの仕事を受注でき、なんとか息を付くことができました。
お金のことでいつも悩まされていた僕は、すっかり歯がダメになってしまい、固いものが食べられない始末。お豆腐はそんな僕の大好物で、原料や製造方法といった「豆腐の世界」にのめり込んでいくことになりました。
「カリスマ豆豊」で有名な篠崎屋さんに頼んで、豆腐作りの研修を受けさせてもらったこともありますし、「男前豆腐」や「風に吹かれて豆腐屋ジョニー」の社長さんは、僕がデザインしていた豆腐会社の社長さんの息子だったこともあり、当時僕がお付き合いしていたのは、豆腐作りへの情熱やアイデアにあふれた方々だったのです。
大豆の違い、製法の違いで、豆腐はさまざまな仕上がりになります。できたてのお豆腐のなんと美味しいことか。
その意味で、僕はものすごく恵まれた出会いと経験をさせてもらっていました。業界をリードするような人々と、豆腐の魅力を直接語り合えたからです。
それで、僕自身も豆腐ビジネスをやってみたくなり、食品事業部を起ちあげることにしました。もちろん、事業本部は西郷村です。いわば、単身移住でした。
■第一次食品事業部、大苦戦
食品事業といっても、製造ラインを自前で作るわけにもいかず、東北のとある製造会社と提携し、僕は商品企画と営業をすることにしました。商品は「特濃豆乳」「パックおでん」「パックポトフ」などで、業販、つまり、ホテルや居酒屋、リゾート施設など企業向けに販売するものです。西武球場に「がんばれライオンズおでん」を納品したり、スキー場にポトフを納めたりもしました
同時並行で豆腐のパッケージデザインを続けながらの営業で、西郷村の山小屋はデザイン事務所と食品営業事務所となり、別荘というよりは雑然とした仕事場さながらと化しました。
西郷を拠点に営業行脚、ホテルや旅館に飛び込んでは「できたて豆腐」の作り方を実演。帰りのガソリン代がなく、現物販売で現金を作ってなんとか帰宅したこともたびたびです。
----これは、無理があるなぁ、と思いながらひたすら走っていましたが、委託製造の営業販売ですから、どうしても利幅が狭く、なかなか利益が出なかったのです。
しかし、そのときに出会った人々や経験が、後の「西郷ゆば工房」設立に大きく役立つことになりました。そしてそれは、本格的な西郷移住へとつながっていったのです。
会社を解散して途方に暮れていた僕が、食うために移住するという発想を持ったのも、こんな経緯からでした。
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